昭和51年10月29日 朝の御理解



 御理解 第40節
 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」

 お道の信心をどういう信心かと聞かれた時に、こういう御教えをよく内容が分かって説明したら、誰でも素晴らしい信心だというだろうと思います。信心とは何にか人の出来んようなこと、例えば火の行やら水の行。言うなら断食をしたり水を被ったりと言った様な感じが一般に強いですね。金光教の信心においてもやはりそういう信心が、信心の基礎としてはでけておらなければならないように、思い違いをしております。
 合楽の場合であっても、つい何年前までかはそう言う様なものが、内容にあったようにある。私は例えば表行というものは、椛目で人が助かりだすようになって一年ぐらい、表行を致しましたでしょうか。けれども以来あのう表行らしい表行というのは、全然致しておりません。ただ勤めるところを勤めるというだけ。お道の信心のいよいよ素晴らしいところはね、そこあたりだと思うんです。
 また今今日の御教えを頂きますと、重いものを担いだり持っておるのじゃないからと仰るように。と言うてなら自堕落でよいということでは決してないのです。例えばこれは私の方の修行生の方達の場合でもそうです。きちっとまぁ五時の御祈念なら五時の御祈念。そして一時の御祈念、四時の御祈念。そして八時の御祈念。御祈念の時にはきちっとここに出て来て修行させてもらう。その間は御信者さん方の世話やら、教会内のいろんな御用をする。だからまぁ言うならば見やすい事なんです。ほかの事はない。
 だからそれを難しいと言えばそれまでですけれども、ただその間が家業を勤め勤めするがよいとおっしゃる、その家業即信心だという事なんです。いや即家業だということなんです。それはお互いそれぞれの生活があります。だから生活を立てていくためには、お百姓さんはお百姓しなければなりません、商売人は商売をしなけりゃならん。勤め人は勤めに出なければならん。だからそれが難しいと言やぁもうそれまでです。それそもものが信心なんだから。
 はぁお百姓は難かしかまぁね、重いものを持たんでよいから、担いでおる事はいらんからと言うて、ならお百姓さんがやはり、やはり米俵も担がんならんいうならしぎもせんならん。その事自体が信心だというのです。信心即生活と言う事が言われます。家業を勤め勤めするがよいという、その勤め勤めしておる事が即ち信心なんです。だから水を被ったり断食をしたりと言った様な事を、これにすると言わば重いものを持ったり担いだりする事になります。
 最近いうなら表行が全廃されたということなんかは、本当の意味においての教祖が言われる、お道の信心の建て前から、表行が全廃されたと言うてもだからよい訳です。先日ここで研修致します時に、それでもやっぱり表行もせんよりした方が良い。と言う様な思い方をしておる人が沢山あります。もう教団金光様の信心の中には一杯あります。ところが私に言わせると、表行はせん方がおかげを頂くということになるんです。いいですか表行はせん方がおかげを頂くんです。水被ったり断食したりする。
 そういうことはせん方がおかげを頂くんです。だから重いものを持つ事になり、担ぐような事をです、せん方がおかげを頂くんです。これは合楽の信心をですもうほんと、まぁ合楽というよりも金光様の信心をこんな信心だと、合楽が先ずそれを手本を示し、なら合楽で水被ったりするような人は一人もおらんぞと、教会長である私自身がそんな修行は全然しない。それでいて増々御比礼は輝いていく、信者は益々おかげを受けて行く。と言う一つの証を立てていかなければならない。
 まぁだ表行がせねばならんように、ばってん出けんと思うたりすればした方が良いと思うたり、しておるということなんですけれども、家業を勤め勤めするのがよいのであって、お百姓さんはお百姓をする事、その事自体が信心にならなきゃならない。そこに合楽で言われる表行全廃、そして心行一本に絞るということになるのです。只商売しておればそれが信心ということではないです。商売させてもらうその内容が、信心でなければならないということは言葉を換えると、その内容が心行でなからなければならない。
 お客さんに相対した時に、そのお客さんに本当に喜んで頂く事のために、と心を砕く事なんです。これが騙されて買うて行きよるてんなんてんじゃないのです。如何にしたらこのお客さんが喜んで頂くだろうかと、お百姓さんが例えば田んぼに出る。農具一つ鍬鎌一つでもです今日一日、自らの勤労に一緒に働いてくれた、その鍬鎌一つでもです「ご苦労さん」とお礼を言う心なんです。農作物とものが言えれるような心行です。ですからだから商売は難かしか百姓は難かしかと言うならもうおしまい。
 自分の頂いておるその仕事。勤め勤めするがよい。自分の勤め勤め信心をするがよい。これは私が勤め勤め言うならば暇のある時に、神様にお参りをすると言った様な事ではないです。その勤め勤めしておるその仕事そのものが信心だと言うのです。だから信心はいよいよ有り難い尊い楽しいもの。信心は楽だ。これは皆さんどうでも一つ観念をね、そのような風に変えてしまわなければ駄目です。もう信心と言うとはぁ水を被ったり断食をしたり、なんか自分の身を苦しめる事が信心のように。
 それだったら信心は難しいというのです。人の真似の出来ん様な事をせんならんと言う様な事ではない。只問題は家業そのものが信心だと言う事です。だからその家業を只百姓しております、商売しとりますというだけではなくて、そのその百姓そのものお商売そのものが信心だというのです。そこになら神様に喜んで頂くというか、自分自身も喜べると言うか、自分自身も楽な言うなら思い方考え方をさせて頂く様にならなければならない。そこに信心の稽古がいる、教えを頂かなければならんと言う事になります。
 皆さんが毎日祈願詞を奏上しておられますね。いわゆる祈願の言葉です。今朝からこの祈願の言葉の事を思うておりましたら、お三方を反対に向けて紙が敷いてあって、何にも乗せてないところを頂いたんです。お三方のこう三つ穴がありますよね、それだから穴の方がこちらの正面に向いてる訳でしょう。それが反対になってる。しかも中に紙がこうやって、もうお供えするばっかりに紙を敷きますよね。けれども何にもそれにお供えがしてない。神様とはお願いするだけが神様ではないということだと思いますよ。
 神仏というのは悲しい時に神頼みするのが神仏のように、そういう観念がありますね日本人は特に。先ずお願いをするなら神様にね、お供えの一つもさせて頂いてそうして願う。これが普通です。これが私は常識にならなければならないと思います。物を人に頼むでも、やはりお菓子箱の一つも持っていって、そしてお願いをするでしょう。神様でもそうです。だから私はこれはお金のお供えをするとか、物のお供えをすると言う意味じゃないです。神様そんなものいくら金を積んだところで、神様が使いなさる訳じゃなし。
 あなた食べなさる訳じゃないのだから。神様にお供えをしての祈願詞でなからなければ、祈願詞が祈願詞にならない。どんなに素晴らしい言葉で、お願いしますお願いしますを、讃え言葉ばかりで讃えるだけではお供えもせんなり、言うなら人間をおだててから頼みよるのと同じ事です。限り知られぬ御力をと神様をおだててある。あなたは力があんなさいますから、あなたは偉いからどうぞお願いしますと、人間に頼む時におだてちから頼むようなもんです。
 それよりか真心込めて頼みに行くなら頼みに行くだけの、一つの手土産の一つも持ってどうぞお願いをしますと。私はこれは教団の上にでも、一つのこりゃミスだと思うですね。祈願詞だけを、祈願詞だけに焦点を置いとるという事はこりゃ間違いです。あなたは天地を一目に見てござる神様。ありとあらゆる万能の神様。何事も出来なさらんことない。それこそ計り知られぬ御力を持ってござるあなた。だからどうぞお願い致します、と言うことは言うならばおだててから頼みよるのと同じ事です。
 そういうことよりも真真心をです言うならば形に表して、それを先ず神様に受けて頂いて喜んで頂いて、そしてお願いしますと言う事にならなければならんのです。お三方に何を乗せるか。お三方というのは神様にお供えするもの。神様に何をお供えするかと。いわゆる信心をお供えするのです。しかも神様が喜んで下さるような信心をいわゆる信心。神様を信じて疑わないという信心。氏子の真からなる真心まごころ。神様の心と同じそれこそ神様と私共が一緒に喜び合い助かり合うていこうと言う様な精神。
 そういう信心がですどういうことかと言うと、これ又少し言葉を変えたり形を変えたりすると、私共が何事にも信心になる事なんです。何事にも信心になれよと仰るのは、信ずる心真心、神心。何事にも信心になる。その心を持って祈願でなからなければいかんのです。それをお供えしてからのものでなからないかんのです。いわゆる家業を勤め勤めするがよいという、家業そのものが信心でなからなければいけない。それが神様への一番の喜びです。神様が一番のお供えです。神様に対する。
 それをせずして祈願詞を何十巻、例えば上げ続けたところで神様がおかげ下さるはずはないです。本当のおかげになってくるはずはないです。金光様の御信心は、私はこの御理解を頂くと、いよいよ表行と言った様な事が、もしそこに伴のうておるならばです、それは重いものを担いでおるようなもの、もっておる様なものですから、金光教的じゃない。いや金光教的というよりも、教祖の教えられた信心じゃないということです。成程教祖様ご自身も、ならその信心の過去においてはですよ、様々な御修行なさいました。
 そしてそれが言わば、金光教の信心ではないということを悟られてからの、例えばこの御理解四十節のような御理解が出てきとる訳です。私もそうでした。そりゃもう本当に先輩の方達、先達の先生方が様々な艱難辛苦して修行しておられますから、私共もやっぱ真似方のような修行させてもらいましたが、だからこれは私が体験させて頂いてこれは神様が喜んで下さる信心じゃないと分かった、ところから表行はしてはならない。いやせん方がおかげを頂くという極言になってきた訳です。
 その代わりに心行をしなけりゃならん。その心行とはどういうことかと言うと、家業がそのまま信心。言わば信心即金光教の信心とは、信心即家業だということなんです。だからどうでも私共のこの一日中が、信心でなからなければならん事が分かります。家業を勤め勤めするがよい。家業そのものが信心なんです。だからそういう信心を神様へ、先ずはお供えをして、そして祈願詞である。それは祈願をしなければならない事が、私共の周辺には一杯あるからです。
 病気をしておる人、お金に不自由をしておる人、家庭が円満でない人。言うなら家業の行をさせて頂きながら、家業を勤め勤めさせてもらう。金光様の信心とは、もう百姓が百姓する事自体が信心だと、分かってその百姓さしてもらう内容が、それこそ鍬鎌一本にでもお礼の言えれるような使い方、信心がなされなければならない。お客さんに相対した時に、このお客さんに如何にサ-ビスする事が、このお客さんが喜んで下さる事かと、心を砕く事なんです。
 昨日或る方が、昨日竹葉会で発表しておられました。その御親戚の方がお百姓しておられます。この頃拠出を五十俵なら五十俵なさった所がその半分が返ってきた。と言うのは半分がいわばうむれとった訳。金にして二十万ばっかり。それで実際にこう食べてみるとやっぱ味が悪い。それをよく聞かせて頂いたんですけれどもねえ、拠出用の米というのを作ってある。余計出来るとを美味しゅうはなかばってん余計出来ると。
 それが拠出用と家に食べるとだけは沢山な出けんけれども、美味しいからと言うてそれを家食べるとは別に作っちゃる。これはもうそこの村だけじゃなく皆そうかも知れませんけれども、拠出用は沢山取れる米を出す、自分方に食べるとは沢山は取れんけれども美味しい米を作っておる。しかも最近熱心に信心をしておるけれども、まぁだそこんにきすらが分かっていない。言うならば家業を勤め勤めするがよいという内容では絶対ない訳です。それは拠出用に沢山取れるとを出す作ると。
 それは量が取れるから、そんなら自分方に頂くのはやっぱそれでなからなならん。自分方に頂くとは美味しい米、人に出す他んもんに出すとは悪か米。そういう考え方でです。例えば百姓をしておる事は、もう信心じゃないからおかげ頂かんです。商売でも同じ事です。只儲かりさえすればよいと、言う様な考え方でお商売をさして頂くならば、もうそれは家業を勤め勤めするがよいという信心じゃない。佐田さんその事を、昨日電話で話された。そこにそりゃ信心のないものなら仕方がないよ。
 けども信心があるものがそういう考え方では、おかげになる筈ないよというて話されたら、まぁ初めて分かったと言う様にして、ほんにそういう御無礼な事であったからと言うて、言われたという話をしておられました。もう汚いですよね。汚いだけではなくてそれでは信心にならない、金光様の御信心は。人に食べさするとは悪か米。自分げに食ぶるとは良か米。この辺のね私は性根から信心というものは変えていく。それが当たり前のように例えばその村ならその村でなっておるらしいけれどもです。
 これはそこの村だけではなかろうと思うです。そういう考え方では、いわば金光様の御信心は根本から間違うとるです。重いものを持ったり担いだりするような、修行はせんでもよいから、日々の家業の中に神様に喜んで頂くような商売。神様に喜んで頂くような百姓。または勤め方。女の方達が家事全般に渡って、毎日忙しい思いをなさるでも、ご飯一つ炊かせて頂くでも、年寄りもおれば若い者もおる。だからもうとにかく若い者は堅いもんが好いとる。年寄りは柔わいとがええ柔いとがええとこう言うけれども。
 そこで若いもんが炊くから結局自分どんが美味しいごとしか炊かん。と言った様な事ではいけん。年寄りも喜び若いもんも喜んで食べてくれる様な、ご飯を炊かせて下さいという祈り願いを持たなきゃでけん。それが信心なんだ。そこになら求められるのが心行だと言う事になります。心行をさせて頂いとらんと、神様に喜んで頂く様な家業がでけんのです。私はこれがどうでもね金光様の信心いや合楽の信心には重いものを担いだり、持ったりする事はいらん代わりにです、これだけはです一つ改まらして頂かないけん。
 例えば極端にいうと、そういう悪い考え悪い事ばっかりしながらです、さぁ水被ったり断食したりしてから、神様にどうぞお願いしますお願いしますというのはです、お供えをせずに三方が反対向いとるように、何んにもお供えせずにお願いしとるのと同じです。これでは神様喜んで下さるはずがない。神様にいうなら只今申しますような心の状態をお供えして、そしての祈願でなからなければならんという。そういう心の状態になってあの祈願詞を唱えるならばおかげ頂くです。心行とはそうなんです。
 心行とはそうしなければおられない、心の状態が出来る事のために心行するのです。下駄一つ揃えさして頂くでも、後から来た人が気持ちがよいであろうと、ここをこう綺麗にしておく事は、綺麗好きだからするのじゃないです。後からここを使われる人が、気分がようあんなさるためにするのです。心を使わなければでけん。お客さんに対するでもそうです。お百姓するでもそうです。
 私はこの本当にね拠出するとは悪か米で良か、自分がたに食べるとは良か米を作るてんなんてんという根性を、まず捨てなければ素晴らしいおかげになってこんです。そういう信心をさせて頂だいとると、ならどういうことになってくるかというとね。昨日竹葉会の一番最後に、一言話させて頂いた事ですけれども、日々が楽しゅうして楽しゅうして、有り難うして有り難うしてという道が開けて来るんです。例えば昨日の竹葉会に私が出たのが一時間余りだったでしょうか。
 それまでずうっと、次から次と私でなからなならん方達のお願いがあっておりました。しかも遠方からのお参りの方達ですから、私があちらにおったんでは度々ここに出てこなければならん。おかげでまぁそういうお取次ぎをいろいろさせて頂だいたんですけれどね、もう素晴らしいタイミングの中に、昨日の竹葉会が終わらせて頂いた。もう四時やんがて半まで大体致しますから、もうお話が一きりついて、これからお茶でもと言よる時に、誠之助さんが、この頃の大祭の写真が出来ましたと言うて持ってみえた。
 まぁ何んという素晴らしいタイミングだろう。さぁ今からお茶頂こうその写真がみんな素晴らしく出来てるんです。五冊出来てきてます。昨日これはまた電話がまた夕方掛かって来たんだそうですが、素晴らしい写真が出けとります。それをね千なん百円掛かるそうですね、引き延ばすだけでこんなに大きく。それに額縁がついて五百円だそうです。これは今日までだそうです写真やさんが。だからあのう夕べそれが電話が掛かってきたそうですから、皆さん頼まれるなら、今日末永先生まで申し込んどかれるとでけます。
 普通写真だけで千なん百円取る。こんな大きい。それに額縁がついて五百円だそうです。そりゃ本な事じゃあるのち。本な事らしいですよ。だから纏めて注文するそうですからね、もう本当に素晴らしい見とって楽しいような、素晴らしい写真がでけてきとるです。それで私は皆さんに申しました事ですけれどもね、なら皆さんが合楽にお参りしてみえた、そして竹葉会で信心研修させて頂いた。その間その間例えて今申しますと、鳥栖の上野さんがお参りしておられました。
 そして帰り表まで出られたところが、またひっくり返って来とんなさいますもん。そして三人ずれば連れて来とんなさる。それが私がちょうど表出たつとこの方達が参って来なさるとが一緒じゃった。鳥栖の方じゃった。そして今あのうあすこん勝美さんと友達の人だった。それがあのうお参りをして要領がどうか分からん。さぁ私が連れていきましょうというてから、ここへ連れてきた。鳥栖の人が帰ろうとしよる。そこへ鳥栖の人が新たに三人ずれ参ってきておる。
 お届けの要領やらまたここで出来た。そういうタイミングがずうっと続いとったです今日は。だから信心生活とはね、そのように素晴らしいんです。だからこれはね信心生活というと、その日その日んごたるばってん、これが一生そういうおかげの頂けれる道があるんだと言うことです。まぁ何という素晴らしい事じゃろうか。言うならば置いた物を取るようにね。
 それで私が竹葉会の最後に、今日皆さんが素晴らしいタイミングの中に信心研修ができたが、信心研修の時じゃない参って来とる時じゃない、自分の家庭でもですもう本当にこのように素晴らしいタイミングの中に生活をさせて頂く、しかもこれが一生出来るというところに、素晴らしかろうがのと私が申しました。だからそれがまぁだお互い出来ていないというのは、今日の私が申しますような根本のところにです、信心を例えば重いものを持ったり、担いだりしておるようなものがありゃせんか。
 そういうものは捨てそう言う者は捨て置いて、そして身軽な信心家業を勤め勤めするが良いという、だからその家業そのものが信心になっとらなければならない。なら家業そのものが信心になると言う事は、拠出用の米は悪か米でよか。自分方で食べるとは良か米を作ると言った様な根性を一遍、根本的にかなぐり捨てなければ駄目だと。そういう素晴らしいタイミングは生まれてこない。家業そのものが信心でなからにゃいけない。いわゆる信心即言わば家業と言う事は、この四十節を今日は私は取分けその事を感じます。
 そして金光教の信心とは、この様にも見やすくて楽なもの、楽しいものだと言う事です。昨日一日私の上に、これはもう日々の事ですけれども、素晴らしいタイミングの中にです、一生を終わらして頂けるというのを、思うただけでもこんなに有り難い。もうこの世は苦の世苦の世界所ではなくて、もうこの世自体が有り難い勿体ない極楽の世界である、世界に住む事が出来る程しの信心です。この四十節はそれなんです。自分の身には重過ぎる様な難儀を、いつも担いでおらなならんと言う事は、決してないと言う事。
 それには家業そのものが、信心にならなければならないということ。そこでそのまぁ過程としてです、タイミングの今度は反対に悪い。はぁひと足違いじゃったとか、はぁ今あの人が来たけん都合が悪かとかと言う様な時に、私共が分からなならん事は、これも神様のご都合だと分からないかん。どういうご都合か分からん。けれどもおかげを頂かせて下さるためのご都合だと分からないかん。
 そしてどういうご都合か分かったら、はぁこっちの心がけが間違うとったと、分からして頂いて改めて行き行きする内にです、楽しゅうして有り難い信心がみやすい、家業そのものが信心。素晴らしいタイミングが生まれてきて、そしてそれが生涯、いや生涯じゃない。実を言うたらあの世までも、そのまま持って行けれるという程しの信心が、金光様の御信心です。金光様の御信心は決して重いものを担いだり、持ったりしておるような難しい信心じゃない。信心は楽じゃと言う事は、信心は楽しいと言う事です。
 例えば昨日一日の事でも、私がつまびらかに皆さんにお話したらです、本な事じゃあるじゃろうかという素晴らしいタイミングの中に、昨日一日を私は終わっとるです。なら皆さんの場合はそのようにまでは、ならタイミングが良く素晴らしいおかげになっていないと、私は思うんですけれども、それは家業そのものが、まだ信心になっていないからだということです。私がうちの修行生に申します。信心は自分で難しゅしちゃでけん。
 最近はその事ばかり。表行をしたらね、重いものを持つような修行をしたら、担ぐような修行をしたら、却ってそれでは却っておかげは受けられん。表行はせん方がおかげを頂くと、私は言ってるんです。だからそれが金光様の御信心だと、いよいよ分かったところからです、金光様の信心がもう他の信心を引き離して、素晴らしいということが分かるです。そして素晴らしいそのタイミングの中に生活をしていく。こんな楽しい事はないです。かと言うてなら自堕落にして良いということではない。
 私が昨日修行生の方達に朝のお勤め。昼の勤め。夜の勤め。それをするのが。はぁなら順序ようにやらなんけん、ここでの信心はとても難しかと言えばそれまで。百姓は難かしか商売は難しかというならもう、信心そのものが難かしゅうなる訳。それだけの事が難しい事のある筈がない。ただその間がです心行だというのです。心に言わば私が一時の御祈念なら一時の御祈念に、皆んなが出て来る時にです。
 そのやっぱ何十分も一時間も前から、さぁ一時の御祈念に間に合わんような事があっちゃならんと言う、心をちゃんと使うていきよる。言うならば心の準備をさせてもらう。それが心行なんです。だから難しい事じゃない。もう信心は難しい事じゃない。重いものを担ぐと言う様なもんじゃない。もう金光様の信心はここへんを本当にそういう一つの、これは金光教全体がね、私が今言う様な事は、まだ誰ぁれも言よらんです。
 それこそ表行のでけん者に心行が出来るかと、四神様のお言葉に御座いますがね、それは表行せんならんということじゃない。表行をする以上に心行というものは、実を言うたら難しいんだということです。けれどもなら火の行水の行するごと、なら難しい事ではまたないということです。自分がその気になれば誰でも出来るということです。その心行に言わばいよいよ取り組まして頂いて、昨日竹葉会の方達に聞いて頂いたような素晴らしいタイミングが生まれてくる。
 はぁお金がいくらいくらいると思いよったら、いよいよ出さなん時にはぴしゃっと集まって来たと。はぁあれが食べたいなと思いよったらそれが集まってくる。もう本当にね、そういうおかげが頂けるのが金光様の御信心です。それを私が表行をやめて心行一本にさせて頂いた。生活全体が信心ということになってきた。そういうおかげを頂くようにならせて頂いて、だんだん素晴らしいタイミングが生まれて来る様になった。ところがならそういう決して素晴らしいタイミングばかりではない。反対の場合もある。
 けれどもそういう時には、これは神様のご都合だと頂くからまた有り難い。そして反対の時には、自分というものを反省させて頂く。この頃大祭の時にあの玉串がこんなになっとった。そこで私の信心があの通りだろうと改まらしてもろうたり、お詫びをさせてもろうたりと言う、生き方にならせて頂くところから、素晴らしいおかげの頂ける信心。今日は四十節を、皆さんに素晴らしいように聞いて頂いたがね、今日皆さんに聞いて頂いたような、お話を皆さんのものにしてしまうということが、お道の信心なんですね。
   どうぞ。